松田華音 チャイコフスキー作曲「ピアノ協奏曲第1番」

 1129日(金)、レクザムホール(香川県県民ホール)。マリインスキー歌劇場管弦楽団2019年日本公演(指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ)。

  シチェドリン:お茶目なチャストゥーシカ
  チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(ピアノ:松田華音)
  ショスタコーヴィチ:交響曲第5

 ピョートル・チャイコフスキー(18401893)は、モスクワの東方約700キロメートルのところにある、ウラル地方ヴォトキンスクで生まれた。父親は鉱山で政府の監督官を務める貴族だった。母親は、フランス語とドイツ語が達者なフランス人の血をひく女性だった。
 
ヴォトキンスクは、「ロシアの母なる川」と呼ばれるヨーロッパ最長の川、ヴォルガ川中流域の町である。フランス生まれの家庭教師ファニーは、チャイコフスキーの亡くなる年に書いた手紙の中で、あれほど美しい日没を見たことはないと振り返り、漁師たちのやさしい唄や悲しい唄に、子どもたちとともに聞きほれたと回想している。
 
チャイコフスキーは、5歳のころからピアノのレッスンを受けていた。母親の影響もあって、子ども時代に優れた音楽と出会い、感動に震える経験をした。
 
10歳になったチャイコフスキーは、ロシアの首都であるペテルブルグの寄宿制の法律学校に入学した。貴族の子どもに官吏の仕事につくための教育をほどこすところだった。両親にしてみれば、当たり前の選択だった。

 当時のロシア帝国は、西欧諸国にくらべると文化的に後れをとっていた。ロシア国民の大部分は農奴で、生まれた土地を耕すほか生きる道がなかった。議会というものは存在せず、絶対的な権力を持つロシア皇帝によって支配されていた。
 
納税から逃れる者のないように監督するのが官吏の仕事で、つねに国民の生活をのぞき込んでは政府に報告していた。この監督官制度があるかぎり、ロシアに本当の変革が訪れることはなかった。

 14歳の年、チャイコフスキーは不幸な知らせを受け取った。あの優しかった母が、コレラにかかって死んだというのだ。衝撃は生涯彼につきまとった。大人になってからでさえ、彼は母親について、涙なしには語ることができなかった。人との絆と孤独。対人関係の矛盾した衝動が根づいた。
 
このころから、彼は音楽に改めて強い興味を持ち始めた。ピアノの指導を受けたドイツ人の音楽家からは才能を認められなかったが、演奏を楽しんだり、作曲を試みたり、オペラを勉強したりすることを止めなった。

 チャイコフスキーは、西欧音楽史の大作曲家の中で、専門的な音楽教育より先に一般高等教育を受けた唯一の作曲家であった。「政治経済への深い理解、評論にみるすぐれた文章力、冷静で論理的な論述法などは、ロシアの最高学府で身につけたのだろう」と、伊藤恵子は述べている。
 
西欧で音楽が盛んになったのは、王室や貴族たちからの支援や保護を受けていたからである。しかし、ロシアの宮廷や貴族たちのもとでは、同じような保護は受けられなかった。音楽の芸術的地位は低く、正式な音楽教育と呼べるようなものはなかった。
 
けれども、19歳のチャイコフスキーが9年間の勉強を終えて、ペテルブルグの法務省で働き始めたころ、後進国ロシアでも変化が起きていた。皇帝アレクサンドル二世のドイツ生まれの伯母、パーブロブナ大公夫人が、ピアニスト・作曲家のアントン・ルビンシテインを連れて西欧を訪問し、「祖国ロシアをヨーロッパの音楽地図に加えよう」という情熱を燃やし、ロシア音楽協会を設立したのである。そして、1862年にペテルブルグ音楽院を創立した。
 
音楽家として生きる決心をしたチャイコフスキーは、第一期生として入学し、翌年法務省に辞表を出した。彼が際立って優秀で、勤勉な学生であることは、すぐに明らかになった。専門的訓練を受けたロシア最初の音楽批評家で、チャイコフスキーの才能を認めた最初の音楽人であるゲルマン・ラローシは、1866年にチャイコフスキーに宛てた手紙に次のように記した。

<率直にいおう。きみの音楽的才能は、だれよりも優れており、祖国ロシアが期待をかけることができるほどだ。ぼくは、そう考えている。……ぼくは、きみに、ロシア音楽の未来における最大の希望、というより、むしろ唯一の希望を見る。>〔『伝記世界の作曲家 チャイコフスキー』〕

 1866年、ペテルブルグ音楽院を卒業したチャイコフスキーは、モスクワへ向かった。アントン・ルビンシタインの弟、ニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院の教授になったのである。ピアノ協奏曲第1番、バレエ「白鳥の湖」、オペラ「エヴゲニー・オネーギン」といった傑作を書き上げたのは、古都モスクワの12年間であった。
 
伊藤恵子は、「浅く広くとはいえ彼ほど多彩な音楽を聴き調べた作曲家は、ロシアにはもちろん西欧にも当時いなかっただろう」と述べている。グレゴリオ聖歌から近代の調性音楽、ロシア聖歌の理論を熱心に学び、西欧に滞在して各地であらゆる音楽を聴くとともに、民謡にも関心を持ち、旅先で必ず民衆の歌や踊りを書きとめた。

 五人組の作曲家をはじめ、同時代のロシア人は、チャイコフスキーを最も西欧化した作曲家だと考えた。しかし、エヴェレット・ヘルムは、「チャイコフスキーは私たちみんなの中でもっともロシア的だ」というイーゴリ・ストラヴィンスキーの言葉を紹介したうえで、次のように述べている。

<彼の構想にあっては、すぐにロシア的だとわかるような音楽を書くことが問題なのではなく、偉大なヨーロッパの伝統に続いて、そこから育ったような音楽――すなわち、国民的な(いわんや国家主義的な)尺度では計れないような音楽――を作ることだった。>
<チャイコフスキーこそ、まったく国民的な独自性を失うことなく、世界共通の音楽言語で自分を表現した最初の偉大なロシアの作曲家だと見なすべきである。ロシア的要素は彼の音楽においては、付け加えられたものでも、意図されたものでも、表面的に装われたものでもない。それは彼の内部に潜んでいる特質なのだ。>〔以上、『大作曲家 チャイコフスキー』〕

 また、繰り返される非難として、チャイコフスキーの音楽は勝手きままで規律のない感情の吐露であるという意見がある。
 
これに対しヘルムは、チャイコフスキーの全作品は自伝的であるというイギリスの作家ラルフ・W・ウッドの考えを取り上げたうえで、マーティン・クーパーの言葉を紹介している。

<……チャイコフスキーの音楽がたとえ彼の人格の完全な反映であるにしても、あらゆる欠点にもかかわらず平凡でも野卑でもなかった一人の人間の音楽の中に、平凡や野卑を見いだすことはできない。……彼を救ったのは彼が感情面で完全に正直だったことである。私たちは彼の感情を強調した世界を拒否することはできるが……一瞬たりとも、その感情がチャイコフスキーの内的な自我に応じたものであることを否定することはできない。彼は心のうちを、もっとも親しい友人たちや親類にだけ打ち明けたが、作品の中では世界全体に対してむきだしにしたのだ>〔『大作曲家 チャイコフスキー』〕

 ピアノ協奏曲第1番は、34歳であった1874年の11月から12月にかけて作曲された。
 
当初、モスクワ音楽院の初代院長のニコライ・ルビンシテインを初演者と目していた。彼に献呈しようと考えて聴かせたのだが、思いがけず激しく非難され、書き直すように言われた。
 
しかし、チャイコフスキーは自分の作曲のこととなると、引き下がることが滅多になかった。訂正を拒否し、ドイツで彼の作品をよく演奏してくれたドイツ人ピアニスト・指揮者のハンス・フォン・ビューローに楽譜を送った。ビューローはこの作品に対し、ルビンシテインと正反対の意見を述べた。

<高潔で力強く、独創的な曲想……。完璧に成熟し、気品あふれる形式……。あなたの作品のすばらしさを、すべて数えあげようとするなら、わたしは疲れはててしまうことでしょう。>〔『伝記世界の作曲家 チャイコフスキー』〕

 ビューローには、アメリカへ演奏旅行をする約束があった。彼は楽譜を携えてアメリカに渡り、187510月にボストンで初演を行い、喝采を博した。モスクワでの初演は、その11月に行われたが、これも好評を博した。

 松田華音のピアノ芸術。この日、それを最初に感じたのは、第1楽章序奏部であった。賛歌風の主旋律をオーケストラから受け継いだところである。ここは、ピアニストの指向する音楽が、はっきり分かれる箇所だと思う。
 
作品世界とは別の、自己の世界を目指す演奏家は多い。反対に、意欲の表現をさほど目指さない冷静で堅実な演奏家も多い。
 
松田の演奏は、前者とも後者とも異なった。何よりも、奏者と作品とが一体である。自分勝手なところがない。それでいて、作曲家の意欲を強く感じさせた。これは本当に不思議で、なぜそう聴こえるのか説明することができない。

 この意欲は、作品の中では使命感として感じられることが多い。この感覚は、ロシアの精神の柱なのである。
 
例えば、「「ロシア文学」を貫く理念」という原卓也の文章によれば、ロシア人の使命感の源は、ロシア正教の精神に遡るのである。

<一方、九八八年にキエフのウラジーミル大公によって国教として取入れられたキリスト教は、一五世紀頃からモスクワを中心とするロシアが、統一国家としての力を増大させてゆくのに比例して、ビザンチンから自立してロシア正教となり、「第三のローマ」たるモスクワこそ正教の中心であると確信するようになる。そしてここにロシア文学の核ともなる世界救済の使命感――ロシア・メシアニズムが誕生するのである。トルストイやドストエフスキーだけではなく、ロシアの作家たちは、つねにあらゆる問題を、全人類的な見地から捉えようとする。>〔『世界の歴史と文化 ロシア』〕

 クラシック・バレエとモダン・バレエの橋渡しをした人物としてバレエの歴史に名を残しているバレエ振付家、ジョージ・バランシンも、使命という言葉を用いて、次のように述べている。

<「私はしなければならない!」。この義務の感覚――それは非常にロシア的なもので、レフ・トルストイやドフトエフスキーの作品におけるように、ロシア人は、自分がある使命を遂行しているのだと感じているのです。>〔『チャイコフスキー わが愛』〕

 ひたむきさ。作品に身も心も捧げる姿。松田華音の演奏の印象である。使命感という言葉が、まさにふさわしい。松田は、音楽を聴いていると、物語が自然に浮かんでくるという。それを音で表現することが自分の使命だと語っている。
 
この日の演奏は、原がロシア文学について述べた次の言葉を思い起こさせた。

<チェーホフの作品の主人公たち、たとえば『三人姉妹』のヴェルシーニンは、「あと二百年、三百年のちには人類は幸福にあるでしょう」と言う。こうした発想もわたしたち日本人にはあまり身近ではなく、ロシア的と言ってよいかもしれない。そしてまた、ロシア民族の篤い宗教心は、その根底に、家父長的な愛の精神を擁している。限りない愛と自己犠牲の精神――これもロシア文学の大きな特徴であろう。>〔『世界の歴史と文化 ロシア』〕

 松田華音のピアノ芸術。それは、限りない愛を抱き、自らを犠牲にし、世界を救済しようとする人間の姿なのかもしれない。

第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ
 
序奏部。ホルンが主奏する導入。それに続いて、賛歌風の旋律が流れる(変ニ長調の主題)。大らかだった。優美という言葉さえ浮かんだ。ロシアの平原の懐の深さ。美しく、果てしない広がりを、吹き渡っていく風。
 
その平原に、響き渡るピアノの和音。それは、打ち鳴らされる、教会の鐘だった。チャイコフスキーは、自分がいかにロシア正教会の礼拝を愛しているかについて、しばしば語ることがあった。
 
大地と教会の鐘。冒頭からこれは、聖なるロシアの顕現ではないか。
 
主旋律をピアノが受け継ぐ。冬の輝き。清らかな高貴な光。と思った矢先、ピアノは早くも崩れ落ちてしまう。深く、懊悩を注ぎ込む。使命を背負った、人間の姿。ありのままの重さ。

<チャイコフスキーは、運命や宿命について多くのことを深く考えていました。それは、驚くには足りません。彼は真のロシア人なのですから。ロシア人は、運命、「宿命(フアトウム)」の存在を信じるものです。>〔『チャイコフスキー わが愛』〕

 大地の限りない広がりに、個人の懊悩がじかに接続されること。これこそが、チャイコフスキーという作曲家だ。松田は、作曲家と一つになって誠実に生きて、聴き手を核心に確かに連れていく。
 
この重さが、しかし今度は圧倒的な意思にたどりつくのである。独奏のあと、再び大地を渡る風が、作曲家を包む。彼を救う。

<彼の日記や手紙を読んでいると、外面的な事件や内面的な衝動の圧力のもとで、作曲家の人格が今にも崩れそうに思えるときがあります。しかし、チャイコフスキーはそのたびに、この危機を乗り越える力を見出しています。>〔『チャイコフスキー わが愛』〕

 この風の、寄せてくる感じが何とも素晴らしかった。まるで波の訪れ。
 
ゲルギエフの交響曲第6番「悲愴」をCDで初めて聴いたとき、彼の音楽の特質に気づいた。第1楽章のロシアの歴史と大地。第2楽章の民衆を動かしてきた原動力。そして、第4楽章では、大地の大らかな呼吸が、民族の祈りと溶け合っていくさま。それらに共通して感じられたもの。それは、確かに大らかに寄せてくる波動。
 
そして、この日の風。ロシア人にとっての、大地というものを想った。日本人にとって、自然というのは生活に浸透しているものである。ロシアでは、人々を抱く存在、偉大な何かなのだろう。ここまでが、雄大な序奏部である。
 
いったん静まったのち、気分が一変する。ピアノに落ち着きのない旋律が現れる(変ロ短調の主題)。カメンカの町で盲目の乞食がうたっているのを聴いて採譜し、使用したもの。
 
そのとき、作曲家に訪れるもの。閃光のようなひらめき。触発され、楽想がたちまちあふれる。華麗に展開され、極められてしまう。
 
そこで、冬の情景に引き戻される。クラリネットが、薄いもやのように漂ってくる(第2主題)。このときの、得も言われぬ情緒。旋律のやさしい伸びやかさ。ゲルギエフの息の長い歌わせ方。この指揮者のもう一つの特質を知った気がした。
 
それを、ピアノが引き継ぐ。そんな夕べに包まれ、一人でいることがあるのだ。もの思いにふけり、たたずむ姿。冬の静かさ。うつろな青白い輝き。
 
しかしその穏やかさが、破られてしまうのは、一体どうしてなのか。

<チャイコフスキーは、穏やかで叙情的な音楽を多く書いていますが、ほとんどドフトエフスキー的とも言える、嵐のような楽節もあります。ロシア人は皆、そうしたものを持っているのです。>〔『チャイコフスキー わが愛』〕

 夕べにたたずむ作曲家に、突如襲い掛かる、実存的な問い。緊迫のとき。
 
この危機は、自己の美を追求することを選ぶピアニストでは、浮き上がらない。作曲家の生き抜こうとする意欲をわが物とし、徹し続けてきたピアニストにしてはじめて、激越な時間になるのである。

<曲のアイディアが浮かぶと、チャイコフスキーは勢いと情熱のおもむくままに書き上げていく。その結果、当時の音楽上の決まりを踏み外してしまうことがよくあった。チャイコフスキーの音楽が、多くの庶民的な聴衆に訴えたのは、まさにその「決まりを踏み外した」点である。>〔『伝記世界の作曲家 チャイコフスキー』〕

 そして、ピアノのカデンツァ。氷を思わせる、輝き。精緻である。作曲家の思索。孤独を確かめながら。憂愁に沈みながら。精神を救い、澄んだものにしてくれるのは、冷たい清潔な景色なのだ。
 
そこに、フルートがやさしく風を吹き込む(第3主題)。終結部に入ったのだ。
 
雄大な大地。その上を吹き渡る風。冬の清らかな光。澄んだ氷の輝き。チャイコフスキーは、これらに包まれ、これらと交感しつつ真摯に生き抜こうとした。困難を乗り越える力を、冬の自然に見たのである。

第2楽章 アンダンティーノ・センプリーチェ
 
弱奏ピッツィカート。そのやさしさ。静けさに、耳を澄ませる。3部形式による緩徐楽章。
 
そこに、遠くのほうから牧歌。アンダンテ主題が、フルートの独奏で現れる。風のそよぎのように。のどかである。
 
それをピアノが受ける。作曲家は、心の中で牧歌をなぞってみるのだろう。そっと静かに、歌ってみる。野辺を歩くと、心が和む。空気を透かして、丘が見えている。チャイコフスキーは、長い散歩をして、自然に浸ることを生涯好んだ。
 
短い間奏ののちに、チェロ、オーボエの順に主題が交替演奏される。自然に接することからくる喜び。ゆっくりとした歩みを感じた。風景は、ゆっくりと移っていく。
 
そこに、いきなりの気ぜわしさ。テンポはプレスティッシモに変わってカプリッチョと化す(中間部)。思いがけない、躍動感。衝動。これは、作曲家のインスピレーションなのであろう。心かけめぐるとき。
 
カメンカやクリン、コーカサス、エトナ山とフィレンツェ、クララン(スイス)。豊かな自然をめでるあいだも、美しい旋律がつぎつぎと泉のように湧きおこった。それを自宅の書斎や旅先のホテルで、五線譜に書きおろしたのである。
 
再び、静かな散歩の道。平和な牧歌がピアノの独奏で再び現れる(第3部)。こんなに豊かな感興に包まれるのだ、田園というものは。牧歌は、トリルや音形装飾を加えて変奏反復される。生の充実をかみしめている。
 
孤独であるほど、田園は変わることなく迎え入れてくれる。

第3楽章 アレグロ・コン・フォーコ
 
ロシアの民族舞曲を想わせる主要主題をめぐる、ロンド形式によるフィナーレ。
 
4小節の導入に続いて、ロンド主題がピアノの独奏によって開始される。突如舞曲の渦中に。民の威勢、凛々しさ。旋回。あの厳しい冬を、押しのけるように。

<復活祭の頃、雷鳴にも似た轟音とともに河の氷がいっせいに砕けて流れ去ると、春が荒々しくやってくる。こうした春の訪れによって味わう解放感と、生の喜びとが、底抜けに楽しみを満喫するお祭り好きなロシア人の性格を作る素地になっているのであろう。>〔『世界の歴史と文化 ロシア』〕

 どんなに長い冬もこの時期には終わり、さすがに雪も消え、大地は青々とした草木に美しく飾られる。新しい季節の力感。祭りは、いよいよ佳境に。民衆の力は解放されて。
 
そこに、優しい春風が吹いてくる。ヴァイオリンの主題による歌謡風の第2主題。平原を渡る風。しなやかな抑揚の隅々までの麗しさ。ロシアの田舎。ロシアの春。作曲家が愛するもののうちで、究極のものだった。
 
それをピアノが受け継ぐ。一途に芸術にしていく。この季節を生き、大地を踏みしめながら。
 
1楽章は、作曲家の苦悩が、冬の自然に救われるドラマであった。
 
3楽章は、春の訪れを受け、希望の楽想を紡いでいく。これからのロシアを後押ししていこうという、働きかけの意欲に聴こえた。
 
そして、オーケストラが地平から一段一段盛り上げていく。その息の長い波動。
 
それをピアノが受ける。下からたくましく駆け上がる。燦然と、世を照らした。
 
そして、凱歌。平原を俯瞰しているようだった。見よ、これが祖国の未来。
 
チャイコフスキーは、強烈な民族的エネルギーと、洗練されたヨーロッパ的な美とを融合させて、独自の世界を築くことに成功した。

 この作品には、大地、風、教会の鐘、田園の静けさ、民族舞踊といったものが登場する。冬から春へ移り行くロシアの情景を描き切った作品なのだ。
 
チャイコフスキーは、離れた地点に立って民衆を鼓舞することはしなかった。苦悩に沈む自分自身をまず置き、祖国の自然に救済される姿を芸術的に提示することを通じ、民族の底力と明日の希望を説き起こしてみせた。

〔参考文献〕

音楽之友社編『最新名曲解説全集 第9巻協奏曲Ⅱ』、音楽之友社、1980年。
エヴェレット・ヘルム著『大作曲家 チャイコフスキー』、音楽之友社、1993年。
ジョージ・バランシン/ソロモン・ヴォルコフ著『チャイコフスキー わが愛』、新書館、1993年。
原卓也監修『世界の歴史と文化 ロシア』、新潮社、1994年。
マイケル・ポラード著『伝記世界の作曲家 チャイコフスキー』、偕成社、1998年。
伊藤恵子著『作曲家 人と作品 チャイコフスキー』、音楽之友社、2005年。




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